慧光(えこう) (各タイトルをクリックすると詳細ページが表示されます)
「慧光」は、東京都羽村市の臨済宗のお寺(一峰院、禅福寺、禅林寺、宗禅寺)で設立された「羽村臨済会」の季刊誌です。
第159号 令和3年 正月号
「謙虚」さを支えるもの
新型コロナウイルスの蔓延により、マスタの手放せない日々が続いています。
少し古いジョークですが、各国政府が国民にマスクの着用を呼びかける際に使われた文言といえば?
アメリカ「マスクをする人は英雄です」
ドイツ「マスクをするのがルールです」
イタリア「マスクをすると異性にもてますよ」
日本「みんなマスクしていますよ」
あくまでジョークですが各国の人柄があ らわれていて面白いですね。
この日本人特有の「右へならえ」といぅ価値観は他国の人から「自己が無い」 などと揶揄される事もあるものですが、こういった感染症対策の時、また東日本大震災の時などの非常時における規律正しい行動は他国から称賛されるものでもあるのです。
唯一絶対神を持たない仏教と多様な神々を祀る神道。その両方の影響のもと、日本の文化は紡がれてきました。そこにおいては人間とはこの大自然を構成する一つの部品という風に我々自身をとらえています。ですので自ずから自然に対し畏敬の念を持ちます。その畏敬の念が我々の謙虚さや公共心の元になっています。
対して唯一絶対神を持つ宗教(ユダヤ教、キリスト教.イスラム教)において、人間は神が「手づくり」した特別な存在として認識されています。神と一人一人 の人間が契約しているわけで、その契約こそ最も大切にされるべきもので、集団や国といった概念に優先されるのです。
こういった宗教的背景を持たずにその欧米的価値観のみを取り入れて傍若無人に振る難い、それを格好いいと思っている人が見受けられますが、非常に残念に思われます。また「自粛警察」と呼ばれる者らの行いにも謙虚さが全くありません。
自分自身のまわりに丁寧に目を配り、他者の迷惑にならない様に留意し、自分の行動を律していく—–この公共心あふれる謙虚な姿勢こそ我々日本人が大切にしていくべきものだと思います。
(一峰義詔)
鎌倉流御詠歌を味わう3
【天地のめぐみ】第三番
山河を照らす陽の光
雲間をもるる月の影
万のものに隔てなの
天地の慈悲かぎりなし
作曲菅原久子 作詞 菅原義道
宗禅寺では毎年除夜の鐘を開催している。除夜の鐘は煩悩の数だけ108回撞くのが正式なようだ。一年の終わりに鐘を撞いて、この一年は煩悩とおさらばしようということだ。今の最大の煩悩はコロナであろう。皆が煩い、悩んでいる。実際には鐘をついただけでコロナとおさらばできるわけではないのではあるが、コロナで中止にしていなければ、日本中のお寺でコロナ煩悩退散の鐘が撞かれるわけで、人々の祈りの力が日本中に鳴り響くのである。
四弘誓願文(しぐせいがんもん)という お経に「煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだんごの一文がある。「尽きることは無い煩悩を断ち切ることを誓い願います。」という文になる。ここが大切なのだが、煩悩を消し去るのではなく断ち切るという。煩悩が湧き起こつてくることは避けられないのだが、その煩悩にとらわれすぎない部分が大事であるとうことであろうか。コロナが消え去ることはないのだが、コロナにとらわれすぎてはいけないということでもある。
昨年、思いがけず神宮外苑の有名な銀杏並木を訪れる機会があった。訪れたといっても、仕事に向かう途中に車でたまたま通りがかっただけのことなのだが、 信号待ちの渋滞もこちらには都合がよく、ほんのひととき車の中からではあったが秋の明媚を楽しませていただいた。
穏やかな自然に包まれてみると、日頃の煩わしさをひと時忘れて、自分が自分に戻れるような感覚を得られる。それはコロナ禍で右往左往している現在の我々にとっても同じことで、こちらが悩んでいようが喜んでいようが悲しんでいようが、空に佇む太陽や月は、いつもどんな人にも分け隔てなく、有り難い光をもたらしてくれている。神宮外苑の銀杏の木もまた同じであった。
コロナ感染者が増加傾向にあった時期であったものの、銀杏並木では赤ん坊を連れた家族連れから友人同士やカップルに至るまで、老若男女問わず大勢の人たちが歩いており、写真を撮ったりしながら、晩秋の週末を思い思いに笑顔で楽しんでいた。そんな姿に触れた私を、思いがけなく平和な気持ちにさせてくれたことを思い出す。
正月は天気が良ければ初日の出を拝みたい。毎日毎日太陽が昇ってくることほど、素晴らしいことはないと思う。天地のめぐみがある限り、我々は大丈夫なのだと信じたい。
(宗禅寺 高井和正)
〜禅語に学ぶ〜 己を見よ
昨年より続くコロナ禍のなか、新しい年が明けました。本年が皆様にとって心おだや力な年でありますようお祈り申し上げます。
このご時世ということもあり、初詣に行くことを控えている方もいらっしやると存じますが、誰もが真っ先に願うのは、「コロナゥィルスが早く収束しますように」ではないでしようか。私も、一刻も早くこの事態が収束することを切に願っております。
昨年は新型コロナゥィルスに翻弄され続けた年でありました。目に見えぬ敵ということもあり、’いつどこで感染する かわからない恐怖や、連日報道される感染者数や死亡者数を見ることにより、先に精神がまいってしまつた方も少なから ずいたのではないでしようか。また、誤った情報により、トイレットべーパー類を朝からお店に並んで買いに行った方もいらっしやると思います。今振り返ってみると、冷静さを欠いていたと思ってしまいますよね。人は思いもしない緊急 事態に遭遇すると、冷静な判断が出来なくなってしまうものです。
照顧脚下
または、「脚下照顧」や「看脚下(かんきゃっか)という禅語をお寺の玄関先で見かけた方もいらっしゃるかと存じます。 どれも「足もとをよく見なさい」という言葉ですが、実生活に展開し「履き物をそろえて脱ぎなさい」ということにもな っております。また、「足もとをよく見よ」というのは、「自分自身(自己)をよく見よ」という意味も込められております。履き物が乱れていることに気がつかないほど、 あなたの心は乱れていますよ、とさとらせているのです。
ときに私たちは、自分自身の足で歩いているようで何かに流されて歩いていたり、誰かの後ろをついて歩いていたりし ていることがあります。特に現代の情報化社会では、様々な情報によって流され、地に足がついていない状態になってしまうこともあるでしよう。
「照顧脚下」という言葉は、時には立ち止まり、何のために、どこに向かって歩いているのか、そのことをしっかりと自分自身で見つめなさい、と私たちに問いかけているのです。
人生を歩んでいく上で不安や迷いは尽きません。そのようなときは立ち止まってもいいのです。自分の足もとをしっかり固め、確かな足取りで新しい一年をともに歩んで行きましよう。
(禅福 尚玄)
禅寺雑記帳
◆令和3年となりました。本年も羽村臨済会をどぅぞよろしくお願いいたします。
◆新型コロナウイルス感染症が世界を覆い、懸念された第3波が日本でも海外でも更に猛威を振るつています。本稿、12月4日の時点で世界中の感染者は6,300万人、死亡者は147万人を越えています。日本国内でも感染者は156,000人、死亡者は2,300人以上です。皆様がこの文章を目にされる時には、どれだけ増えているでしよぅか。
◆罹患された方、亡くなられた方、そのご家族に心よりお見舞い申し上げます。 また、日々危険と向き合いながら最前線で働く医療従事関係者の皆様やそのご家族には心から敬意を表するとともに、深く感謝を申しあげます。
◆まだまだ不便が続きますが、有効なワクチンが出来たとの報道も出ており、外国では接種も行われ始めています。効果が本当に有効で、副作用も無ければ良いのですが、日本国内でワクチンが普及するまでにはもうしばらく時間がかかりそうです。それまではマスクや手洗い、うがい、蜜を避け距離を取るなど、基本的な事、出来る事をしっかりやって、お互い助け合っていきましょう。
◆今まで当たり前だった事が、実は当たり前では無かったという事が良く判った一年でした。行事という行事は皆中止、親子ですら感染を危惧して会えないとか、目に入れても痛くない程可愛い孫にも会えなくて寂しいといった声も沢山耳にしました。
◆「当たり前」の対義語、反対の言葉は、「ありがたい」だといいます。漢字で書くと「有り難い」です。東日本大震災の時も当たり前が当たり前では無い事に気付かされましたが、このコロナ禍は私たちから更に多くの当たり前を奪い取ってしまいました。当たり前がどれだけ有り難いことかを忘れずに、ひとつひとつの機会を大切にして、これからの人生を送っていきたいものです。
◆「祥」という字は「めでたし」や「さいわい」という意味の漢字ですが、意外にもこの字には「わざわい」という意味もあるのです。災いがあった時、祭壇に生贄を供えて神様に祈ったところ、災い転じて福と為った事を表わしたもので、左側の偏、示すが祭壇を、右側の羊が生 贄を表わしています。コロナという禍いも、「当たり前」が「有り難い」事なのだと教えてくれたと考えれば、幸いと転じた事になるのかもしれません。一周忌のことを小祥忌、三回忌の事を大祥忌といいますが、大事な家族を亡くした厄を超えて、法要を営み前へ進んでいきましょう。という意図があるのです。法要には 必ず効果があります。コロナ禍の中でこそ、規模は小さくとも法事や供養をして頂きたいものです。
(禅林 恭山)
第155号 令和2年 正月号
お正月-神と仏と-
令和二年の新しい年が明けました。本年もよろしくお願いいたします。
以前、檀信徒の方から「お正月にはお墓参りをするものなのですか?という、ご質問をいただいたことがあります。歳神様をお迎えするお正月に、お墓参りは縁起が悪いというイメージもあるようでこういったご質問になったのだろうと思われます。
吉田兼好(兼好法師)書いたとされる鎌倉時代末期の『徒然草』につぎのような文章があります。
「月寵(つごも)りの夜、亡き人の来る夜とて魂祭(たままつ)るわざは、この頃、都にはなきを、東(あづま)のかたには、なほすることにてありしこそ、あはれなりしか」、
「大晦日、帰ってくる亡き人の御霊(みたま)をお祭りする習わしが都ではなくなってしまったが「関東ではいまだ行われていることに深い感銘を覚えた」。
古き時代は月の満ち欠けにて暦を判断していました。(太陰暦)、月龍りというのは、月が新月に一番近い月末を示している言葉になるようです。
「亡き人が帰ってくる」、どこかで聞いたことがある表現です。そう、夏のお盆(孟蘭盆)です。ご先祖様がご自宅に帰って来られると云われているお盆、迎え火を焚いてお迎えし、盆踊りでお見送りをするあのお盆です、実は、かつての日本ではご先祖様が帰ってこられるのはお盆だけではなく、お正月にも帰ってくると云われており、仏教が日本に来る前から、そのような習慣があったようです。長い年月を経るうちに、正月は歳神様をお迎えするから神社、お盆はご先祖様をお迎えするからお寺と、役割が分担されたということでしょうか。
神社の神様はその土地の鎮守様であり、我々が普段生活している土地をお守りし、自然(大地)の恵みである水や食べ物(穀物、野菜、魚)など、生活に欠かせないものを我々に与えて下さる存在と言えます。
お寺はその土地に生きてきたご先祖様をお守りしています。我々の命はご両親、ご先祖様からの授かりものだということです。
土地を護る神様とご先祖様を護る仏様、長い歴史の中で我々日本人自身が神仏両方に敬意を払ってきて下さったことによって、どちらも大事な日本の伝統となりました。
ご家族揃って地元の神社で旧年中にいただいた自然の恵みを感謝し、お寺でご先祖様に無事に新年を迎えたことをご報告する、土地と人に感謝して新年が始まります。
(宗禅寺 高井和正)
受け継いでいくもの
皆様明けましておめでとうございます。
この度、禅福寺の副住職としてお迎え頂きました田島尚玄(たじましょうげん)と申します。
簡単ではございますが、自己紹介させて頂きます。私は青梅市千ケ瀬町にございます臨済宗建長寺派宗建寺の次男として生を受けました。修行に行く前は、一般の大学で心理学を学び、同大学院法心理学科に進学し犯罪心理学等を学んでおりました。住職の父と副住職の兄の姿に影響をうけ、大学院卒業後、鎌倉にあります大本山建長寺専門道場に掛塔致しました。建長寺での修行を終え、宗建寺の兼務寺である緊徳院の副住職に就任し、昨年まで勤めておりました。そしてこの度、素晴らしいご縁を頂き、昨年十月に禅福寺のご息女であります田島弘恵(たじまひろえ)さんと結婚し、禅福寺の副住職となりました。令和元年という日本の新たな時代の幕開けの年に、禅福寺という新たな地でスタートを切ることに、言葉では言い表せないほどの感謝と縁を感じております。
禅福寺でございますが、あと二年後の令和四年になりますと、創建650年の大きな節目を迎えます。650年、とてつもなく長い年月ですね。その間、開山無二法一和尚様から代々受け継ぎ、禅福寺という寺を守ってきたということになります。
お寺でなくとも、私たちはご先祖様から命を代々受け継いでおります。両親は二人、祖父母は四人、曽祖父母は八人と遡ってまいりますと、十代目まで合わせると二千四十六人ものご先祖さまが存在する、という話を聞いた方もいらっしゃると存じます。この中の一人が欠けてしまうと、今の自分は存在しないことになります。今生きていること、これはとても尊いことなのです。お墓参りをする際は是非、顔が分からなくとも今まで代々続いてきたご先祖様に思いを馳せ、手を会わせてみてはいかがでしょうか。これからも、この命の尊さを語り継いでいきたいものですね。
私も禅福寺副住職として、現住職であります泰文和尚と共に、また、田島家一丸となって禅福寺を守っていく所存でこざいます。羽村寺院の一員となり早数ヶ月、まだまだ未熟者ではございますが、これからも何卒よろしくお願い申し上げます。
(禅福寺 尚玄)
禅と共に歩んだ先人 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、今回より幕末から明治にかけて活躍し、現代の日本のあり様にも大きな影響を与えているといえる「山岡鉄舟」についてお話させていただきたいと思います。
マルチな才人
さて、山岡鉄舟という人を説明するとして、あまりに多くの面が存在していたという事実に驚かされます。
幕末には有能な旗本として幕府を支え維新後もまた、新生日本の礎の構築に尽力しました。剣の達人として知られ、多くの門人に菓われました。達筆としても高名で多くの書が残されています。さらに臨済禅の求道者として優れた境涯を得て、ついには自らの禅寺を建て、後進の育成にはげみました。全くその豊かな才能には驚異と共に感心させられます。
生い立ち
山岡鉄舟(天保七年、西暦1836年~明治二十一年、西暦1888年)は江戸本所(現在の墨田区)に蔵奉行(くらぶぎょう)、小野朝右衛円高福の第五子として生まれました。母、塚原磯(つかはらいそ)は剣豪とて名高い塚原ト伝(ぼくでん)を先祖に持つ家系の出身でした。
九歳より久須美閑適斎(くすみかんてきさい)より新陰流しんかげりゅう(直心影流じきしんかげりゅう)剣道を学びます。しかしすぐに飛騨郡代に任じられた父と共に飛騨高山に転居し、そこで七年間を過ごします。高山では弘法大師流入木道(じゅぼくどう)五十一世という書家、岩佐一亭に書を学び十五歳で五十二世を受け継ぎ「一楽斎」と号しました。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学びました。
父の死に伴い江戸へ戻った鉄舟は、井上清虎の授助により十九歳の頃「講武所」に入り、千葉周作らに剣術、山岡静山に忍心流槍術(にんしんりゅうそうじゅつ)を学びます。
静山が急死し、静山の実弟健三郎(高橋泥舟たかはしでいしゅう)らに望まれて、静山の妹、英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となります。
講武所に入って翌年には、剣道の技倆抜群により、講武所の世話役に抜擢されました。
また生前に父から勧められていた事もあり、十七歳の頃から禅の修行を始めます。長徳寺願翁、龍澤寺星定、相国寺独園、天龍寺滴水、円覚寺渋川と名だたる師家(老師)に参禅し、その境涯を大いに高め、後に滴水和尚より印可(悟りの証明)を与えられるに至ったのでした。
以下次号
(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆令和最初のお正月を迎えました。羽村臨済会を本年もどうぞよろしく御願いいたします。
◆昨年は台風や豪雨で、各地に甚大な被害がありました。被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
◆台風十九号の時には東京都内にも避難勧告が出され、羽村市でも四百三十八世帯、千百人以上が小中学校などの避難所へ身を寄せました。羽村では河川の氾濫は起こりませんでしたが、堤防のすぐ下まで水は来ていましたから、もう少し雨が降り続いたらどうなっていたかわかりません。堰下の大きな堤防はまるごと流されて無くなりましたし、灯篭流しを行う宮ノ下グランドも土が流されてしまってひどい状態です。川の形もすっかり変わってしまいました。「何十年に一度」の災害が毎年のように続いています。どうか今年は穏やかな一年でありますように。
◆即位礼正殿の儀をはじめ、天皇陛下の一連の御即位に関する行事が無事に円成しました。日本という国の歴史の奥深さ、素晴らしさをあらためて教えて頂いた気がします。令和という時代が穏やかで、良い時代でありますように。
◆昨年のラグビーワールドカップ日本大会には大きな感動を頂きました。日本代表チlムはメンバー三十一人のえち、外国人選手が十五人も入っていましたが、試合前の国歌斉唱では全員が君が代を歌っていました。本当に日本の代表として、ワンチーム、一丸となって戦い、誰もが勝てないと思っていたずっと格上の相手を倒して、ベストエイト入りを果たしたのです。鍛練次第で人は不可能を可能に出来ること、あきらめないで目標に向かうことの大事さ、ラグビーという競技自体の面白さ、ノーサイドの清々しさなど、沢山のことを教えて頂きました。
◆そして今年はいよいよ東京オリンピック、パラリンピックが開催されます。折角の機会ですから、何かの競技を会場で応援出来たらと思いますが、私は今のところ抽選が全て外れています。結局テレビでの応援になりそうですが、それでも精一杯応援したいものです。
◆聖火リレーは早くも三月二十六日から福島県で始まり、日本全国を回るそうです。東京では七月十日から全六十三の市町村でリレーが行われ、羽村は七月十三日の朝に予定されています。お盆中ですが、雰囲気だけでも味わいたいと思います。
◆羽村臨済会の四件のお寺の一つ、禅福寺に新しく尚彦和尚様が副住職として入られました。二面に御本人の原稿が掲載されていますので是非お読みください。末永いお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。
(禅林 恭山)
第154号 令和元年 秋彼岸号
「餓鬼道」に墜ちないように
先日、美濃の正眼僧堂(しょうげんそうどう)の日々の生活の様子を取材した番組が放送されてましたので興味深く拝見しました。
僧堂での食事では喋ることはおろか物音一つ立ててはいけません。箸を置く音タクアンを噛む音にも細心の注意を払います。自分自身が雲水として修行しておりました時は「そんなものなのかな」と思いながら食事をいただいていましたが正眼僧堂の師家である山川宗玄老師がおっしゃるには「餓鬼道」に墜ちた餓鬼に食事をしていることを覚らせないためだとの事でした。
餓鬼はものを食べる事ができません。目の前にはおいしそうなものが沢山あるのに、いざ食べようとすると炎に変ってしまうのです。いつもお腹を空かせている餓鬼は他人の食事に敏感です。人が食べている姿をみつけたら「おまえらだけおいしいものを食べてるなあ」と羨ましがり、嫉妬してさらに苦しむことになります、餓鬼をさらに苦しめない様に静かに、ひっそりと僧堂において食事はなされているのです。
現代はSNSが大流行りです。そこでは誰もが多数の人に情報を発信する事ができます。多くの人が自らをアピールしています。やれ「何を食べた」「何を買った」「どこどこに行った」などと他人に知ってもらってどうするのかと疑問に思ってしまう事も発信されているようです。結果それは他人の嫉妬心を煽り「なら私はもっと」とエスカレートしていきます。なんだか不毛に感じます。嫉妬は地獄の入り口です。心に生じたはじめは小さなものでもどんどん肥大し自分自身が嫉妬心に支配されてしまうまでになってしまい平穏な日常とは程遠いものとなります。だからこそ他人に嫉妬心を起こさせないようにする事も大切なのです。そう心掛けて生きる事で自らも嫉妬心に悩まされる事が減っていきます。餓鬼を想いながら食事をすれば自ずと感謝の念も湧き、施すことの大切さも覚えるでしょう。「餓鬼道」に堕ちないようにと。
(一峰 義紹)
鎌倉御詠歌を味わう1
今号より鎌倉流御詠歌を一緒に読み進めてまいります。第一回の今号は「建長寺の由来和歌」です。
◆建長寺由来和讃
帰命頂来(きみょうちょうらい)建長寺
開山大覚禅師(だいかくぜんじ)には
広くこの世の人々に
禅道(みち)を弘めん心より
八重の潮路をわたり越え
遠く宋より来給えり
時頼ふかくよろこびて
その御徳に慕いより
時の後深帝(みかど)に聞こえ上げ
身代わり地蔵の由緒ある
地獄の刑谷(たに)を切り拓き
建長五年の霜月に
この建長寺(みてら)をば営みて
禅師を初祖となし給う
星はうつりて七百年
世間をてらす法の灯は
巨福のやまのいただきに
真如の月とかがやきて
清く気高く今もなお
不滅の光を放つなり
建長寺は鎌倉幕府第五代執権、北条時頼公により千二百五十三年に創建されました。それまで罪人を処刑し埋葬する地獄谷と呼ばれていた場所です。お地蔵様は地獄からも人々を救ってくださるということで、心平寺という小じんまりした地蔵堂があった場所でした。この因縁により、今も建長寺のご本尊様し地蔵菩薩となっています。
創建の時は鎌倉に都がおかれてから、およそ六十年後のことです。それまでの京都の平安貴族ではなく、鎌倉の武士が世の中をリードしていく時代の転換点でもありました。元々時頼公は仏教に深く帰依をされていましたが、時代を引っ張っていく新しい世代の人材育成に、大陸から入ってきた当時の最先端の禅の教えを、という強い信念のもと建長寺を創建されたことになります。禅の指南役には時頼公は当初、道元禅師の招聘を考えられておりましたが、ご高齢もあり断念せざるを得ませんでした。
一方の蘭渓道隆禅師は中国重慶のご出身。成都で得度され、千二百四十六年、三十三歳にて禅の布教のため日本にやってきます。博多から京都に滞在しておりましたが、既に多くの仏教寺院が立ち並ぶ京都において、自らの禅の道を説く余地がないと御判断され、時頼公の招きにより鎌倉に来られるのです。
巨福山(こぶくざん)建長寺は、新しい時代を切り開いていこうという時頼公と、禅の教えを広めていきたいという道隆禅師、二人の情熱が見事に合わさり創建され、禅の教えは鎌倉から日本全国に伝わり、今もその法脈は途絶えていません。
(宗禅寺 高井和正)
禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 あとがき
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。
前回で一旦この項はおわりとさせていただきましたが、あとがきとしてもう少しお話させていただきます。
子規と芭蕉
現代に続く「俳句」の隆勢の礎を築いたのは明治期に活躍した「正岡子規」にほかなりません。当時の俳諧は芭蕉を神格化し、芭蕉の句であればなんでも有難ならへがって、それに倣って句を創るといった風で百年以上も停滞していたのでした。その状況に「このままでは俳諧は滅んでしまう」と危機感を覚えた子規は旧態依然とした俳句界を徹底的に批判しました。
「陣腐(ちんぷ)」「月並み」といった言葉でバッサリと切り捨て、返す刀で彼らの教祖ともいえる芭蕉も切り捨てたのでした。一つ一つの句について、これは良い、これは悪いと評したのです。それは確固とした子規の「俳句観」があればこそといえるでしょう。「俳句」という言葉も子規が最初になります。子規はそれまでの俳諧は連歌の「発句」という体で詠まれている事を否定し、五・七・五の部分だけで完結する「俳句」を提唱しました。さらに技巧的なもの装飾的なものを排し、写生的に詠むことを良しとしたのでした。
かなり過激に自らを主張する子規とは手法は違いますが、芭蕉もそれまでの俳諧を否定し、「蕉風」を確立した訳ですので新たな価値観を持って来たという点で両者は同じです。子規によって新風を吹き込まれた俳句界はにわかに活気を取りもどし、現在につながっています。俳諧の命を永らえさせたという功績だけでも子規のなした事は偉業といえますが、反面芭蕉の評価はどうなったでしょう?
子規は芭蕉の詩情性を高く評価していましたが少し理解が足りなかった様に思われます。そこに禅的境涯という太い柱が欠けているからです(あえて禅的なものを無視したのかもしれませんが)。
活気づいた俳界には多くの才能が集まり、今日まで続いていますが、禅的境涯とは遠くへだたってしまった様におもわれます。臨済禅への深い理解をもった人が芭蕉を再評価してくれているのが救いでしょうか。
(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆この夏も豪雨による甚大な被害が各地で起こりました。被害に遭われた方々に謹んでお見舞いを申し上げます。
◆極楽浄土は西にあるといわれ、太陽が真西に沈む春分、秋分の日に先祖供養を行うとその功徳が向こう側(=彼岸)の浄土に届きやすいと考えて春秋の彼岸の行事が行われるようになったといわれます。日本で最初の彼岸供養は西暦八百六年と記録がありますから、千二百年以上も彼岸は続けられて来たことになります。さらに二百年前の、六百六年から行われてきたお盆の行事とともに、これからも途切れることがないように伝えていきたいものです。
◆これだけの伝統がある国は日本だけだと思います。その伝統は、神と仏を大事にすることで続いて来ました。年間三千万人以上にのぼる外国人観光客のお目当ても、こうした伝統を感じられる神社仏閣や、世界一美味しい和食も含めた日本文化、四季折々美しい自然の風景なのです。私たちは本当に素晴らしい、世界一の国に住んでいるのです。英語教育に力を注ぐ事よりも、日本に生まれ、生きられる事がどれだけ素晴らしい事かを自覚出来る教育をして欲しいと思います。それが愛国心にもつながる筈です。
◆日本では戦後、愛国心という言葉が、あぶないものであるかのように扱われてきました。学校で国歌「君が代」の時に起立しない、歌わない教師がいたり、国旗「日の丸」を軍国主義の象徴だとして排除する動きが公に存在したのです。
◆愛国心は「ナショナリズム」と「パトリオテイズム」という二つの意味を含んでいます。「ナショナリズム」は民族主義、国粋主義、自国ファースト、といったところでしょうか。これに対して「パトリオテイズムは、郷土愛、祖国愛を表す言葉です。祖国への誇りや愛情を国民が持たなかったら、その国の未来は無いと同じです。大東亜戦争の敗戦国である日本は、行き過ぎた「ナショナリズム」によって戦争へ走ったとの反省から、「パトリオテイズム」も含んだ愛国心を悪い事だとして排除して来たのです。愛国心を教えない国は、世界中で日本だけです。
◆現在、小中学生が山や川で遊ばないよう指導されています。五十二歳の私が子供の頃は毎日のように、外で遊んだものでした。フナやザリガニ、熱帯魚のように美しいオイカワを採ったり、河原ではオニヤンマやトノサマバッタを追いかけ、向こう山でカブトムシやクワガタ、沢ガニを捕まえ、急な夕立ちに友達とびしょ濡れで家へ急いだ等の思い出は何にも代えがたいものです。そういう経験が自然と郷土愛に、やがては祖国愛へとなるように思いますし、生命の大切さも学べる筈ですが、その機会が与えられていない事がとても残念です。
(禅林 恭山)
第153号 令和元年 盂蘭盆号
令和も「今ここ」
元号が改まり、「令和」の時代がはじまりました。最初の元号「大化」から248番目です。元号は中国ではじまり、かつては広くアジア圏で使われた制度でしたが、現在元号を使っているのは世界中で日本だけとなりました。よくぞ残してくれたと思いませんか。是非とも、令和を良い時代にしていきたいものです。
早速、令和を社名に入れる会社が百を越えたそうです。会社の繁栄を願って新たなスタートを令和と共に切って行こう、という事でしょうから、良い事だと思います。しかし本来、元号は勅許、天皇陛下の許可無く使えないものでした。皆様の菩提寺の本山は御存知のように鎌倉の建長寺です。建長寺は元号が「建長」の時に建てられました。こうした元号を名前にした寺はそれほど多くなく、延暦寺、仁和寺、建仁寺、寛永寺などが代表的ですが、延暦寺、仁和寺は創建当時は違う名前で、後から元号を寺名にしています。創建当時から元号を冠された建長寺は、実はそれだけ日本にとって特別なお寺なのです。
建長寺は建長五年(1253)、鎌倉幕府五代執権、北条時頼が開山に宋(中国)から蘭渓道隆禅師を迎えて建立しました。正式名を『建長興国禅寺』といいます。「仏教の正面」といわれる禅の教えによって、日本国の繁栄を願ったのです。
禅とは「今ここ」の教えです。お経を読む時はお経に成り切れ、ほうきを持ったらほうきに成り切れ・・今ここの自分があるべきもの、やるべきものに成りきれという単純な教えです。世界には決まった時間には仕事中であっても礼拝をしなければならない宗教や、のべつ幕無しに呪文を唱える宗教が存在します。それが悪いとは言いませんが、禅ではお経は読むべき時にしかよみません。本尊すら決まっていないのです。仕事の時は仕事三昧釈迦も阿弥陀も忘れて良いのです。
日本は鎌倉時代からずっとこの「今ここ」を実行して来たお陰で、国土が狭く資源も乏しいのに繁栄してきたのです。「令和」がどんな時代になるかは、私たちの「今ここ」の積み重ね次第です。
(禅林 恭山)
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その16
◆白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の他に仏無し
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
例えば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うことならず
六種輪廻の因縁は おのれが愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏み添えて いつか生死を離るべき
それ魔訶衍の禅定は 称歎するにあまりあり
布施や特戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 みなこの中に帰するなり
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくにありぬべき 浄土すなわち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳に触るる時
讃歎随喜する人は 福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性すなわち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門開け 無二無三の道なおし
無相の相を相として 行くも帰るもよそならず
無念の念を念として 謠うも舞うも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処すなわち蓮華国 この身すなわち仏なり
坐禅和歌・意訳
我々はもともと仏である 水と氷のようなもの
水を離れて氷なく 我々のほかに仏はない
皆、近くの仏を知らないで はるか遠くに仏を求む
それは水の中にいながら 渇きを求めるようなもの
裕福な家の息子が 物乞いするようなもの
六道輪廻の始まりは おのれの愚かさよるなれば
悩みに悩みぬいても 闇が晴れるとは限らない
坐禅による禅定 素晴らしきものである
布施行、持戒行の善行 念仏、織悔、修行など
全ての善き行いは 禅定あってのことである
ひとときの坐禅の禅定が 積んだ罪を滅してくれる
悪しき心はどこにあるか 善き心もすぐそばにある
ありがたくもこの教えに 触れる機会を得たとして
教えを受け入れたならば 幸福無限のこととなる
まして自ら行を積み 自己の本性感じれば
自己は即ち無性にて 言葉や理屈はいらぬもの
因果の道理に目が開けば 進むべき道は一つとなる
形なき形こそが真実となり どこにいても自分の場なり
心のひっかかりがとれれば 自らの行いすべて仏の現れ
遮るものなき空のように 心に智慧の月が照らされる
この上何を求めるのか 求めるものがないからこそ
今この場こそ蓮華国であり この身がそのまま仏となる
坐禅和讃シリーズ最終回です。
父母恩重経に続き、お経の意味を書かせていただきました。
禅は心こそが大事であると説きます。我々は無数の因縁の元にこの世に命をいただきます。日本のような裕福な国に産まれる子もいれば、紛争地域の難民キャンプで産まれる子、障害を持って産まれる子もいます。生まれの境遇に差はありますが、裕福な国に生まれたからといってそのまま幸せになるわけではなりません。財産や地位や物質的な豊かさよりも心の静けさ、穏やかさがあれば、そこに仏の智慧が現れると白隠さんがおっしゃっています。仏様にお参りをして合唱する。そこに蓮華国があります。
(宗禅寺 高井和正)
禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第十三話
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。
「かるみ」蕉風の完成
「おくのほそ道」の旅において芭蕉は「不易流行」を一歩進めた「かるみ」という境地に至ったのだと前回お話しました。「不易流行」も「かるみ」も蕉風の作風を説明するものとしての言葉ですが芭蕉の人生観そのものともいえるのです。
若い頃は覇気もあり、未来に大きな希望を持って生きていても、年を経て自らの老いと向きあった時、身も弱り病がちになったり、親しい人々との死別、自らの死への覚悟と、なかなかに思い描いていた幸せな人生はやってこない、幸福とは虚妄に過ぎないのではないか?それどころか人生とは悲惨なものなのではないか?
ではその悲惨な人生をどう生きていけばよいのか。大きく二つの道がある。一つは嘆くこと。もう一つは笑うこと。俳詰はもともと言葉遊びの中から発生したものでその中で生きてきた自分(芭蕉)にとっては人生は悲惨なものと覚悟しつつ、だからこそたまにある幸福をより喜び感謝したい。
「おくのほそ道」以降の芭蕉の句にはこうした人生への深い諦念が感じられます。苦しい、悲しいと嘆くのは当たり前の事をいっているにすぎない。今さらいっても仕方がない。ならばこの悲惨な人生を微笑をもってそっと受け止めれば、この世界はどう見えてくるだろうか?つまり「かるみ」とは嘆きから笑いへの人生観の転換だったのです。
俳詣はもともと滑稽の道、笑いの道でした。「かるみ」はその滑稽の精神を徹底させることにもなったのでした。その「かるみ」は時代を超え、後世の俳人にも受け継がれていきました。
病の床にあった正岡子規が「悟りといふ事は如仰なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は知何なる場合にも平気でいきて居る事であった」(『病床六尺』)と書いていますが、その平気ということは「かるみ」を子規として表現したものといえるでしょう。
参考文献
長谷川擢「奥の細道」をよむ
この項了
(一峰義紹)
禅寺雑記帳
◆令和最初のお盆を迎えました。日本では六百六年、推古天皇によって日本で初めてお盆の法要が行われたといいます。日本の最初の元号「大化」が645年ですから、それよりも更に古い、とっても歴史のある日本の伝統行事なのです。これからも未来永劫、大事に伝えて行きたいものです。それは今を生きる私たちの役目です。
◆今上天皇陛下は、初代の神武天皇から数えて百二十六代目と宮内庁のホームページに記載があります。神武天皇は紀元前六百六十年のお生まれですから、皇室の歴史は二千七百年近くもあるのです。
◆「神話の話をされても」という意見もあるでしょうが、存在が確実に確認されている代から数えても千五百年以上続いていて、わが国の皇室は世界の王室の中で最も歴史があるのです。誇らしい事です。
◆令和の典拠は『万葉集』からで、史上初めて日本の古典から引用されたという事も大変話題になりました。お陰で万葉集関運の本が売れまくっているそうです。
◆今回元号が変わる事をきっかけに、日本中が同じ方を向いて盛り上がっているように感じます。十月二十二日には「即位礼正殿の儀」が行われます。その日に日本中の各家庭全てが玄関先やベランダに日本国旗「日の丸」を掲げたらどんなに素晴らしい事でしょうか。国旗をお持ちで無い方、是非用意して一緒にお祝いしましょう。
◆今年も「羽村灯篭流し」が、八月三日(士)十八時三十分から宮ノ下運動公園にて行われます。今年で三十七回目となります。大勢の和尚による読経と、鎌倉流御詠歌の皆様の奉詠の中、多摩川に灯篭を流して供養するお盆の伝統行事です。家内安全、交通安全、青少年の健全育成などの祈願もいたします。
◆実行委員会の皆さんはこの日の為に二月から何度もの会合を行い、警察署や消防署、国土交通省、市役所等との協議を重ね、また炎天下での灯篭の販売等に励んで来られました。夕方の行事ですが当日は朝の八時から会場の準備をし、翌日も会場の清掃活動を行います。本当に大勢の協力によって成立する、とっても大変な、そして素晴らしい行事です。せっかくですから是非一人でも多くの方に御参加、御協力を頂きたいと思います。当日参加出来なくても、事前申込みで灯篭を流して供養して頂けます。一基千円です。詳細は各菩提寺にお尋ね下さい。なお雨天の場合は翌四日になります。
(禅林 恭山)
第152号 平成31年 春彼岸号
「平」和は「成」ったのか
平成という時代が終わろうとしています。
中国の古典「史記」から、平成という元号を引いて三十年。時の政府は「平らになる」「平和になる」という文字に願いを込めて、平成という元号を採用しました。それから三十年、果たして額面通りに平和はやってきたのでしょうか。
平成はその前の昭和に比べて、少しはマシな時代だったのでしょうか。
誰れでも平和に暮らしたい、平穏な日常を送りたいと思っています。戦争や災害のない世界であって欲しいと思っています。それでは例えば、隣の家の子は東大に合格し、自分の子は引き込もり、隣は家を新築し、自分は失業して家を売り払わざるを得ないとします。それでもあなたは心の平和を保てますか。この世の不条理、理不尽さに、腹を立てませんか。人は人、自分は自分と割り切って、他人の幸せを祝福することができますか。少しでも嫉妬心がある限り、心の平和はやってきません。家庭の平和も世界の平和も同じことです。世界の平和を叫ぶより、心の平和を保つことの方が難しいのです。
心の平和の大切さを伝えるため、近年日本からも鈴木大拙をはじめ、多くの仏教者が海を渡りました。異教徒に仏陀の教えを説き、仏教信者もできました。しかしながら、いまだ世界は平和とは言えません。独善的な無神論者や一神教の狂信者が、手前勝手な論理で、この地球を牛耳ろうとしているからです。慈悲心のない損得勘定だけの独裁者ほど、危険なものはありません。
日本も偉そうなことは言えません。子どもを虐待する親、善人をだます詐欺師、イジメに犯奔する若者、責任を取らない人、利益至上主義の企業。これらは平成の三十年に目立ってきたことです。仏陀が一切の苦の根源だと説いた自己愛の為せる姿です。
戦争のない状態が平和なのではなく、他の幸福を願う「菩薩として生きる」人々が地上に溢れた時、本当の平和がやってくるのだと思います。まだまだ時間がかかりそうです。
(禅福 泰文)
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その15
この時何をかもとむべき
寂滅現前するゆえに
当処すなわち蓮華国
この身すなわち仏なり
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)
◆意訳
「この上何を求めるのか。悟りの世界はすでに皆の自の前に広がっている。自分のいる場所が極楽なのであり、自分自身そのものが仏ではないか。」
寂滅(じゃくめつ)
死ぬことを寂滅とも言いますが、ここでは涅槃、仏教の目指す悟りの世界のこ
とを指しています。
禅の涅槃(悟り)とは
仏教や禅における涅槃、つまり悟りの境地とは一体どういう世界なのでしょうか。悟りを開く。何か言葉では言い表わすことができない不思議な力が自分自身に舞い降りて来るのか。空中浮遊できるようになるのか。百五十歳まで元気でいられるのか。未来を予知できるようになるのか。残念ながら禅の悟りというものは、そういった類いの非現実的な不思議な力を得るというものでないのです。仏教や禅の教えというのは、ある意味では非常に現実的なものです。
悟りと覚り
悟りは覚りとも書きます。つまり「目覚め」のことです。目覚めるということは、自分を取り囲んでいる世界が変わるということではありません。自分の身に起こったある経験を境にして、今迄の自分では見ることができなかったことが見えるようになる。あるいは感じることができなかった部分を感じれるようになるということです。例えるなら、重病を患った人が奇跡の復活を果たしてみると、毎年当たり前のように見ていた桜の花の美しさ、毎日顔を合わせていた家族の存在の尊さ、自分自身がしっかりと生きていることの素晴らしさに気づく(目覚める)ということでしょうか。
日常の中の好時節
禅の世界に「春に花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、もし閑事の心頭にかかるなくんば、すなわち是れ人間の好時節」という言葉があります。あれやこれやとつまらぬ事を心に煩うことがなければ、春夏秋冬、季節を選ばず、年中が人間にとって好い季節である。という意味の言葉です。我々が社会の中で生きていく以上は、いくらかの不案や心配事がつきまとうこともあるでしょう。しかしながら、春の麗らかな陽気に出会ったり、ご家族皆様で過ごす時聞があったり、仲の良い友人たちと過ごす甘美な時聞があることも確かです。日常の中の素晴らしき時間をしみじみと味わうことができるのであれば、そここそが涅槃なのです。
(宗禅寺 高井和正)
禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第十二話
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。
「おくのほそ道」5
芭蕉の残した紀行文の中でも、最も著仰なものといえるのが、この「おくのほそ道」です。前回までこの作中の句を観ていきながら、その作風の変化をお話してきました。
旅の始めにあたり詠まれた句と、最後の句はどちらも「別れ」を題材としたものです。そこには大きな作風の違いがありました(前回参照)。この旅を通じて、芭蕉にどういった心境の変化があったのでしょうか?
以前「蕉風(しょうふう)」(芭蕉の作風)において「不易流行(ふえきりゅうこう)」という重要な価値感があるとお話しました(松尾芭蕉医9)。「不易」とは永遠不変の事。「流行」とは変わりゆく事です。我々は変わりゆくものの中で生きていますが、視点を大きくもてば、変わりゆく事実そのものが日常であり不変なのだという価値観です。宇宙的視点ともいえる壮大なスケールを持つ句を出羽(山形)から越後(新潟)の旅において残していて、それを我々に伝えています。
うってかわって、その後の旅では「別れ」がテーマとなったかの様に多くの別れを芭蕉は体験し、句に詠んでいきます。では「不易流行」はやめてしまったのでしょうか?そうではなく、宇宙的視点から人間を、自分自身を観て、句を詠んでいるのだと考えます。人生において「別れ」はつきものです。旅においては毎日が「別れ」の連続でしょう。この「おくのほそ道」に「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」という序文を残した芭蕉も「人生=別れ」という思いを強く持っていたのだと思います。その「別れ」をことさら嘆き悲しむのではなく、「これもまた人生」という風にとらえ、受け入れていく。これが芭蕉のこの旅においてたどり着いた「かるみ」という境地なのです。それがこの旅の最初の句と最後の句にあらわされているのです。
ここで唐の詩人干武陵(うぶりょう)の詩と、井伏鱒ニ(いぶせますじ)の訳を紹介します。(後半のみ)
花発多風雨 花発(はなひら)けば風雨多し
人生足別離 人生 別離足(べつりた)る
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
以下次号(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆私たちの宗派、臨済宗の僧侶がボランティアで運営する『吉縁会』という組織があります。いわゆる婚活を支援するも入会金や年会費、成婚費用などはので、一切掛かりません。これまでに一万八千人以上の会員がいて、八百組以上の結婚が成立しているそうです。
◆会の当日は、和菓子作り、坐禅、精進料理つくり、数珠作りなど毎回異なる体験を皆で行った後、異性の参加者と五分ずつの談話をしていく、という流れになっていて、この実費(三千円程度) のみが自己負担になります。
◆参加にはまず登録が必要です。登録の資格は、二十五歳から四十五歳までの男女で、インターネット、メールが使える事が条件になります。パソコンが無くてもスマートフォンが使えれば問題ありません。会からの連絡もすべてネットを介して行われ、郵便物が送られることはありません。
◆登録は指定された日時に、本人自身が指定のお寺へ行って担当の僧と会わなければならず、代理人では受け付けられません。また事前登録をネットで行う必要があります。ボランティアなのでいつでも行っている訳ではありません。事前登録は、先着順で締め切られます。一度登録すれば、日本の各地で開催される会への参加が可能になります。
◆次回東京地区の登録日は三月三十一日、事前のネットでの予約締切は三月二十九日となっています。興味のある方は『吉縁会』で検索してホlムベlジで詳細を確認下さい。すべてはそこに掲載されています。それを理解出来る事も参加資格の筈です。まずは一歩を踏み出してみましょう。
(禅林恭山)
第150号 平成30年 秋彼岸号
日本人は無宗教なのか
日本人は無宗教であるとよくいわれます。
NHKの1996年の「全国県民意識調査』によれば、日本人の70%もの人々が「信仰を持たない」と回答したそうです。
都道府県別に見ると、地域によってばらつきがあり、沖縄は飛び抜けて高く、9割の人々が信仰を持たないと回答しています。逆に北陸や広島は「信仰をもっている」人が多い地域で、撞井では5割を超えます。
では、我々の住む東京はどうかと言えば、「信仰を持っている」と答えたのは27%という全国的に見ても少ない方になるそうです。
また、内閣府の平成26年度の若者への意識調査において、「宗教が日々の暮らしの中で拠り所となるかどうか」という質問に対し、「ならない」と答えた人は64%に対し、「なる」と答えた人は18%でした。
これらの数字だけ見れば、確かに日本人は無宗教なのかもしれません。ただ、本当にそうなのでしょうか?
日本人は無宗教である。この見方は、ある一つの視点からの見方に過ぎません。
それは外国人からの観点、つまり海外と日本とを比較しての見方です。
そもそも日本には「宗教」という日本語自体が存在していませんでした。幕末にペリーが来航してからアメリカとお付き合いをする過程で、英語のReligion(レリジョン=宗教)という一言葉を翻訳する必要に追られ、好余曲折を経て「宗教」という言葉が採用され、明治時代に広く使われるようになったそうです。
そういう意味では文字通り日本は無宗教な国だと言えます。しかし、ペリーが来るずっと以前からお伊勢参りも、祇園祭りも、彼岸会も念仏講もあったのは確かです。
秋のお彼岸のお中日は秋分の日という国民の祝日です。国民の祝日にはそれぞれ意義が設定されていて、秋分の日は「祖先を敬い、なくなった人々をしのぶ」とされています。お彼岸のお墓参りも初詣もお祭りのお神輿も除夜の鐘も宗教的行為かもしれませんが、それらを日本人は信仰とか宗教とは思っていないのです。
あえて言うなら、宗教という言葉を引っぱり出してわざわざ表現する必要がないほど、国民的な習慣として、生活の奥深くに根っこづいて溶け込んでいるものだと言えます。
心配なのは、「日本人は無宗教である」と、当の我々日本人自身が自ら思い込んでしまうことです。神社やお寺は日本人の心の形成と深く関わっているはずなのです。
(宗禅寺 高井和正)
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その13
無念の念を念として歌うも舞うも法(のり)の声
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)
◆意訳
「今の心を後に残さず生きてゆけば、何をしていても仏の安らかな心のままなり」
残念と無念
残念無念という言葉があります。非常に心残りである。悔しいという意味の言葉です。残念も無念も一般的な日本語では同じ意味として使われますが、仏教においては正反対の意味で使われる言葉です。
無念の念を念として。早口言葉のようでもありますが、普通の日本語で見てしまうと、悔しさを忘れずに心に留めておく、という意味に捉えることもできます。ただし仏教の場合は、無念は一切の後悔を残していない、つまり迷いから離れた心のことで、悟りの心を表わす言葉なのです。
無念の念を念として
明治時代、禅の僧侶で原坦山(はらたんざん)という方がおられました。坦山和尚、若い時分に仲間の鵠侶と諸国行脚をしていた時の話です。
坦山和尚、旅の道すがら橋の架かっていない川に差し掛かりました。普段であれば歩いて渡ることができそうな深さの川でありましたが、先日の雨の影響か水かさが増しており、渡るのを躊躇してしまう水の勢いです。さてどうしたものか。
周囲を見てみると、向じく困った顔で川を見つめて立ちつくしている一人のうら若い女性がおりました。やがてその女性は着物の裾をたくし上げ始めます。どうやら歩いて川を渡る決心をしたようです。やおら坦山和尚、女性に駆け寄り、背中におぶって川を渡してあげると申しました。女性を背負った坦山和尚は、川の向こう岸まで捜してあげることに成功し、お礼を言う女性を残してさっさと旅路を急いだのでした。心中穏やかでないのは仲間の舘侶です。女性と別れて二人で歩き始めてから、「修行中の僧侶が自ら女性を背負うとは何事か!」と、坦山和尚を答めます。すると、坦山和尚高笑いをしながら一言返しました。「なんだ。お前はまだあの女性と一緒にいたのか。俺はとっくにあの川原で下ろしてきたよ」と。
念という字は
念という漢字をよくみてみると、「今の心」と書きます。無念の念を念としてとは、今の心を後に残さないということです。我々には喜怒哀楽という感情があります。自分の身に起きた良いことも悪いことも、しっかりと受け止めつつも後に残さない、感情にこだわり過ぎないことが大事であると説かれています。過去にこだわりすぎると今を見失ってしまう。ということでしょうか。
(宗禅寺 高井和正)
禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第十話
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。
芭蕉の残した紀行文の中でも、最も著名なものといえるのが、この「おくのほそ道」です。前回に引き続きこの作中の句を観ていきたいと思います。
市振の関(いちふりのせき)(新潟県西部、現在の糸魚川市)を経て、越中(富山)、加賀(金澤)、越前(福井)から大垣(岐阜県大垣市)、に至る、この紀行文の最後を飾る道中となります。ここで芭蕉は多くの別れに直面します。
一家(ひとつや)に遊女もねたり萩の月
市振の関にて詠まれた句です。たまたま同じ宿にお伊勢参りの道中である遊女が泊まっていました。翌朝、出立にあた
り遊女から伊勢まで同道させて欲しいとお瀬いされました。やはり女性二人旅は当時の環境では心許なかったのでしょう。しかし、芭蕉は「お伊勢参りの道中の人はすでに天照大神に守られている」といって素気無く断ります。ここで遊女と別れます。
塚も動け我泣声(わがなくこえ)は秋の風
金沢で一笑(いっしょう)という俳人と会うのを楽しみにしていた芭蕉でしたが、着いてみれば前年の冬若くして亡くなっていたのでした。その一笑を追悼して詠んだ句です。君の墓前で私は秋風のようにすすり泣いているという悲惨な現実と「塚も動け」という激しい衝動の取り合わせが印象的な句となっています。ここでも芭蕉は別ここでは芭蕉は多くの別れにれを体験します。
今日(けふ)よりや書付(かきつけ)消さん笠の露
金沢を過ぎ、山中温泉に逗留していた芭蕉一行でしたが、同道の弟子曾良(そら)がお腹を壊し、それが良化しないため伊勢の長島の知り合いのもとへと先に旅立つ事になったのでした。その弟子との別れにあたり詠まれた句です。残された私の笠は涙に濡れた様に露がついている、これからは笠に書かれた「同道二人」の文字を消して行こうという意味です。
この様にそれまでの宇宙観的視点で詠まれていた句は無くなり、旅の佳境といっていいこの終盤において、また大きな
句読の転換がみられます。別れの句はまだあるのですが、また次号より観ていきたいと思います。
以下次号
(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆暑さ寒さも彼岸まで、ようやく長く異常に暑かった平成最後の夏が終わりました。六月中に梅雨が明けてしまい、以後各地で史上最高気温を更新、お隣の青梅でも40度を超えたとニュースになりました。熱中症で救急搬送された方、亡くなられた方も過去最高を記録しました。
◆西日本を中心とした豪雨では220人もの方がなくなられ、土砂崩れや浸水による被害も甚大でした。この豪雨によ
り被災された皆様ならびにそのご家族の皆様に心よりお見舞い申し上げます。被災地の皆様のご無事と一日も早い復旧をお祈り申し上げます。明日は我が身、出来る範囲で支援をしていきたいものです。
◆何十年に一度の猛暑と言われましたが、このような暑さが今後は毎年のように続くのかもしれません。開催まであと2年を切った東京オリンピックがどうなることやら、とても心配です。暑さ対策としてサマータイム導入の意見も出ています
が、既に導入していたロシアは国民の不満からこれを廃止していますし、EUでも8割が廃止を訴えている制度であり、
時代に逆行している感が否めません。技術大国日本ですから、何か別の方法を見つけられないものかと思います。
◆今年になって、レスリング、ボクシング、アメリカンフットボール、体操などアマチュアスポーツの指導者や幹部によるパワハラや審判不正などの問題が相次いで表面化しました。徹躍的に問題を洗い出して、こちらも東京オリンピックまでに改善して欲しいものです。
◆サッカーワールドカップロシア大会では日本代表が活躍し、とても感動しましたが、その裏で、あの大会のテレビ放映権料を、日本が600億円も支払っていたというのです。そのうちの6割をNHKが、残り四割を民放4局で負拒したそうです。世界中の国々が同じような額を支払うのであれば納得もいきますが、日本だけが突出して高く、全体の三分の一近くを日本が支払ったというのです。NHKのお金は私たち国民の受信料ですから、納得のいく説明をして欲しいものです。
◆この事はほとんど報道されておらず、知らない方が多いようです。主催者のFIFAと各テレビ局の間には某広告代理屈が入っているといい、マスコミはこれを怒らせると広告を貰えなくなるから報道出来ないのでしょうか。こういう問題をこそ国会で明らかにして欲しいものですが、どうでも良い事を延々と操り返して、足を引っ張りあっているだけに見えます。
◆身体障害者の水増し雇用の問題では、手本を示すべき中央省庁が3460人もの水増しをしていた事が明らかになりました。色んな所で日本という国のタガが外れてしまっているようで、この先どうなるのかとても不安です。
(禅林恭山)
第146号 平成29年 秋彼岸号
今年の夏をふりかえる
気候変動の激しかった夏、16日間連続の雨、その中で8月5日には、羽村とうろう流しの第三十五回が、禅福寺田島和尚のもと、挙行されました。
個人的に私にとって、今年の夏は特別のものとなりました。7月5日から9日間のイスラエル巡礼、8月6日の長野松本の浅間温泉、新宮字さんの第二十回目開催の原爆忌への表敬訪問。5月27日に宗禅寺の住職を和正和尚に譲ったので、責任を若和尚に託してできたことです。
イスラエルに行ったのは、鎌倉のカトリック雪の下教会の山口神父さんからのお誘いによります。鎌倉では宗教者会議といって、神道・仏教・キリスト教の三者が3・11の追悼復興法要、各宗教の勉強会、交流の集いを行っています。交流から、キリスト教のミサやイエスキリストそのものを現地イスラエルで体験し、この目で確かめたくなりました。
テルアビブから若いキリストが伝道布教に励んだガリラヤ湖周辺、山上の垂訓教会(狭き門より入れ、求めよされば与えられんの教会)やパンと魚の教会、ユダヤ教の会堂跡をみて、カナやナザレの受胎告知教会、死海の浮遊体験、マサダ、クムラン、そしてエルサレムのキリストが十字架を背負って歩いた道、ヴェルツヘムの生誕教会等を巡礼してきました。
キリスト教とイスラム教は共にユダヤ教の中から生まれています。ユダヤ民族・アラブ民族・ゲルマン民族など、宗教と民族の混淆を見せてもらいました。緊張の中の平和、何かあると暴力事件が起きそうです。ただ観光客が直接被害をうけることはなさそうでした。
神宮寺さんの原爆忌は以前から行きたかった所で、やっと行くことができました。丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」15部作から「幽霊」と「灯篭流し」が、「沖縄戦の図」から米軍が初めて上陸した読谷村の「残波大獅子太鼓」の計三作品が本堂に展示され、その中で金城実さんと高橋住職の対談を間近に見聞しました。特に、沖縄が受けた地上戦のことが心にのこりました。兵隊だけでなく、沖縄の住民が否応なく戦に巻き込まれ、悲惨な体験をさせられました。この事は、沖縄の人にしか解らないものです。本土や内地にいる人達の戦争体験とは比べようもないものです。沖縄が受けたこの事実を、私たちはしかと見つめなければいけないでしょう。
イスラエルのユダヤ教、イスラム教、キリスト教、そして民族の対立。この中からだからこそ、平和が切実に求められるのだろうと思います。日本の場合は、終戦記念日・原爆・沖縄から平和への意識が求められます。
この地には「横田基地」もあります。北朝鮮とアメリカとの対立もますます激しくなってきています。
戦後72年、日本は与えられた平和のおかげで発展し、豊かな生活を送ることができました。今こそ、地上戦の苦しみをしっかり受け止めるからこそ、平和の有り難さと維持が必要になってきます。与えられた平和を保つために何をしなければいけないのでしょうか?
(宗禅寺 高井正俊)
白隠禅師坐禅和讃を読んでみる その9
辱(かたじけ)なくも此の法(のり)を一たび耳にふるる時
讃嘆随喜(さんたんずいき)する人は福を得(う)ること限りなし
(白隠禅師坐禅和讃より抜粋)
◆意訳
有り難いことにこの教えを一度でも耳に触れる機会をいただき深く信じて受け入れられる人は必ず幸福を得ることでしょう
純一無難の心
「じゅんいつむざつ」あるいは「じゅんいつむぞう」と読みます。雑味がなく純粋一途な心の姿を表している言葉です。私が三島瀧澤寺でおせわになった亡き死活庵中川球童老師が、入門当初の私に口を酸っぱくして言い聞かせて下さった言葉でもあります。「ええかい、修行の第一歩は純一無雑からじゃぜ。先輩から言われたら、はい!と、返事して、余計なことを考えずに言われた通りにやるんじゃ」。聞かされていた当初は、そんなに何遍もおっしゃらなくてもと思っていましたが、日々を過ごすうちに老師の言葉の重みを感じるようになりました。
人生の出会い
我々の日々の生活の中には必ず出会いがあります。皆様が自分の人生を振り返ってみても、「この出会いが私の人生を変えた」と思えるものが必ずあるものではないでしょうか。そして、その出会いは人間同士の出会いばかりではないように思います。白隠禅師にとっては一枚の地獄絵図がそうであったように、絵画や音楽、一冊の本、普段何とも思ってなかった両親や友人の何気ない一言や非日常的な場所での体験など、その出会いは人によって様々だと思います。もしかすると、我々は自分の人生を変えるようなものに出会っていながら、それに気づいていない場合もあるのではないでしょうか。
私は親戚でもある、市内の禅林寺様からのご縁で宗禅寺にやってきました。初めて禅林寺様にお会いしたのは、母方の祖母の葬儀式でのことだったように記憶しております。そのときは私も中学生でしたので、普段あまりお会いしない親戚の方という認識しかありませんでした。まさか、このような深い関りを持つことになるとは思ってもいませんでした。出会いとは分からないものです。
人生は一瞬で変わる
白隠禅師は一たび耳にふるる時、つまり我々が初めて出会った時に讃嘆随喜できる心の状態でいるのかどうかを我々に説いて下さっているように思います。日頃から自分の心を常に純一無雑にしていれば、つまらない観念に縛られることなく、素晴らしい人生が待っていることを伝えて下さっているような気が致します。
(宗禅寺 住職 高井和正)
禅と共に歩んだ先人 松尾芭蕉 第六話
臨済禅と接し、その精神性や美意識に感化される事により、自分自身を高め、偉大な功績を残した先人達を紹介するという趣旨で進めていこうというこの項ですが、前回に引き続き江戸時代前期に生き、日本の俳諧(俳句)を芸術的域にまで高め大成させた「俳聖」とも呼ばれる「松尾芭蕉」についてお話させていただきたいと思います。
「野ざらし紀行」続き
芭蕉はその生涯において多くの紀行文(旅に出てその土地の文化や風習などを紹介する文)を残していますが、その最初となるのが、この「野ざらし紀行」でした。旅立つにあたり禅的悟りを得んと覚悟し、実際この旅館で芭蕉の作風が徐々にかわっていき、のちに「蕉風」と呼ばれることになる自らのスタイルを確立させたという事。また「物我一致」という境涯を得て、それが作風の変化に大きく寄与したと前回述べました。「物我一致」とは「物(自分以外のもの、つまり対象)と「我」を分けない、つまり「無分別」の境涯をいいます。無分別とは自分の無い状態、つまり無我の境地でそこに物だけが残る、自らが物になりきる。これが「物我一致」の境涯です。
海暮れて 鴨の声 ほのかに白し
これは尾張(現代の愛知県東部)の海を見て詠んだ句です。五・七・五が俳句の定型ですが、これは五・五・七と破調となっています。定型通りとすれば「海暮れてほのかに白し鴨の声」となり、これでも良い句といえそうですが、これでは白いのは鴨の声となってしまいます。実際そう解釈する向きもあります。詩人的表現によって鴨の声を視覚化したものとする解釈です。しかしそれではあえて破調にする理由が無くなってしまいます。「海暮れて」と入り、すぐに「鴨の声」とくる事によって聞き手はクーックーッという鴨の鳴き声を思い浮かべます(鴨の姿では無い)。さらにそこで「ほのかに白し」と来る事で聞き手はうすぼんやりとした白い色を脳裏に浮かべます。この順で詠む事により、うすぼんやりとした霞の中からクーックーッという鴨の声が聞こえて来る情景を表現したと考えるべきかと思います。そう考えた時に上の句の「海暮れて」は状況説明的なもので分別的になりますが、「鴨の声」はまさに「鴨の声」でしかなく、「ほのかに白し」もまさにそれだけになります。芭蕉自身クーックーッ、という声になり、また白になりきった無分別の境涯を詠んだものと思います。先に著した「海暮れてほのかに白し鴨の声」では分別から離れられず、その状況にいる芭蕉自体を想像させられますが、その違いにこそ、芭蕉がこの旅で得た「物我一致(一智)の境涯を感じます。
以下次号
(一峰 義紹)
禅寺雑記帳
◆早くも秋のお彼岸となりました。二ヶ月表示のカレンダーは、あと一回しかめくることが出来ません。終わりよければすべて良し、2017年は良い年だったと振り返られるように、残りの日々を大事に過ごして行きましょう。
◆今年の夏は本当に異常気象で、日本でも世界でも記録的な豪雨による甚大な被害が多発
しました。被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。
◆八月の東京都心は日照時間が史上最短だったとの事。雨が降らなかった日が4日しかなく、農作物への悪影響や、レジャーなどで期待された消費が見込めなかったなどの被害も相当だと思います。夏は夏らしく、適度に暑くあって欲しいとつくづく感じました。このお彼岸は穏やかな、良い秋でありますように。
◆とはいっても、豪雨や地震といった天災は人間の力ではどうしようもなく、仕方がないとあきらめるしかりません。しかし人の頭越しにミサイルを打って来る独裁者による人災は勘弁してほしいものです。ミサイルの実験が上手くいくは限らず、途中で落下する可能性もありますし、飛行機や漁船にぶつかる事も考えられます。何があっても責任を取るつもりも反省の言葉も無いことでしょう。あの行動で、国民が幸せになれる筈がありません。誰が得をするのでしょうか。
◆来年開催されるサッカーのワールドカップ決勝大会に、日本が堂々と進出を決めました。自分が勝ったように嬉しく思います。文明のある現代、戦争によって命を奪い合う愚かさを捨てて、国と国はスポーツによって正々堂々と戦って欲しいものです。
◆決勝大会進出を決めたオーストラリア戦で2点目のゴールを決めた井手口選手は、21歳の若さですが既婚で、娘さんもいるそうです。奥様は母親が病気で余命半年と宣告された際に、安心させる為に結婚したとスポーツ紙にありました。
◆井手口選手は「嫁と娘は俺が守る!という気持ちはでかい。自分のために、というより、誰かのための方が頑張れる」と語ったそうです。さすが日本の代表、人柄も素晴らしいではありませんか。
◆誰かの為にと頑張ることが、すなわち自分の為になる、これは仏教の『自利利他』です。自分を高めれば、他人や世の中に対してより役に立つ事が出来るのです。
◆先の井手口選手の活躍は、亡くなられたお義母様にとって本当に誇らしく、何よりの供養になった筈です。お彼岸は先祖を敬い、自分を高めて今日命のある事に感謝を捧げる仏教徒にとって大事な期間です。私達はそれぞれ、生きている限り先祖の「代表」です。相応しい生き方をしているか、この期間に見つめていきましょう。
(禅林恭山)